「キリストのことばを行う信仰」ルカ6章39~49節

イエス様は、キリストの弟子として成長する必要があることを説かれ、師を目指して成長していくとき、自分自身を省みることの大切さを教えられました。さらには、「心」にある物が、私たちの行為、特にことばとして出てくるという私たちの根本部分に言及され、「主よ、主よ」と口だけで求める者が、キリストの弟子なのではなく、イエス様のことばに心から聞いて、「行う人」が、まことの弟子であることを語られました。その人は、試練という問題が押し寄せてきても、「しっかり建てられていたので、びくとも」せず、一方聞いたのに、行わない者は「すぐに倒れてしまい、その壊れ方はひどい」と厳しい現実を語られ、この説教を終えられました。一見イエス様は、強迫的に、私たちをキリストの弟子として成長させようとしているかに見えるかもしれませんが、全く違います。イエス様は、この説教の前半、いかに父なる神様は、私たちにあわれみ深いかを語られ、そのあわれみ深さ、そして愛に基づいて、キリストの弟子として成長することを望んでおられます。ですから、私たちはこの神様のあわれみ深さのうちに、また愛に応えて、聖書のみことば、イエス様のことばを、行うことを前提に、聴いていきたいと思います。

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