「自分を低くするものは高くされる」ルカ18章9~17節

 
 イエス様は「自分は正しいと確信していて、他の人々を見下している人たち」にたとえ話をされました。それは宮に祈りに来たパリサイ人と取税人の話でした。パリサイ人は宮に入り、自らが罪を犯す者でないこと、律法に忠実に、敬虔に生きていることを自負し、祈りました。一方、取税人は「神様、罪人の私をあわれんでください」と深く自らが罪人であることを認識し、神様のあわれみを求め祈りました。このたとえ話を語られた後、イエス様はこの二人の内、神様の御前で「義」と認められたのは、パリサイ人ではなく、取税人だと語られました。そして「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです」とこのたとえの意味を解かれました。つまりパリサイ人は、神様の御前で自らを高ぶり、故に「義」とは認められませんでした。一方、取税人は、罪悔い改め、神様のあわれみにすがり、へりくださることで、高くされ、そして「義」と認められたというのです。私たちも敬虔に生きることは大切ですが、それが見せかけの信仰となり、自らの栄光を表すことになるなら、「義」と認めらず「神の国」に入ることはできません。私たちも神様の御前でへりくだり、あわれみにすがり、主によって高くされたいと思います。その者は、神様を愛し、隣人を愛する生き方へと導かれるのです。

関連記事

  1. 「光の子どもとして歩む」ルカ8章26~39節

  2. 「バラバかキリストか」ルカ23章13~25節

  3. 「いのちのことばを語り継ぐ」使徒の働き5章12~24節 

  4. 「その名は、インマヌエル」マタイ1章22~25節

  5. 「生きる手立てのすべてを投げうってでも」ルカ21章1~4節

  6. 「祭りの備え」ルカ22章1~13節