6月25日の礼拝メッセージ録画は以下よりご覧いただけます。
https://youtube.com/live/4AaPYo0j4f0
哀歌は約束の地であったイスラエルが他国に奪われ、神殿が焼かれてしまった哀しみを詠んだ歌です。しかし、哀歌のちょうど真ん中に(3章21節から33節)神の希望が歌われます。それは、主の恵みを心に思い返したことから始まりました(3章21節)。主の恵みは、イスラエルの(私たちの)不従順にもかかわらず、アブラハム・ダビデに対する契約を守り通してくださる神の真実です。神の真実ゆえに主イエスはこの地上に来られ、十字架で私たちの罪をすべて引き受けてくださいました。そして死から三日目に蘇られました。哀歌の記者は、目に見える約束のイスラエルの地がなくなり、希望がなくなった後に、「主こそ、私への割り当てです」(24節)と告白しました。主イエスは私たちにとって受けるべき分です。主イエスに留まっているならば大丈夫という関係に入れられています。終わったと思える時に、聖霊によって神の真実を、聖書を通して教えられるときに、私たちは神に信頼し、待ち望む歩みができます。主のあわれみは永遠に尽きることはないからです。