「キリストが私を捕らえてくださっている」ピリピ3章12~16節

5月26日の礼拝メッセージ録画は以下よりご覧いただけます。

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キリスト教における救いとは、罪と悪から救い出され、神の御怒り、滅びというさばきから免れるということだけでなく、キリストによって義と認められ、神の子供になり、終わりの日には栄光に輝く主と同じ姿に変えられるという積極的な意味を持っています。パウロは今日の箇所で、救われた者が、聖霊によって主の似姿に変えられていく、いわゆる「聖化」について語っているのですが、この「聖化」という歩みも希望に溢れ、積極的なことであり、全き喜びに向かっていく歩みだと語ります。私たちは「聖化」の歩みの中で、もっとちゃんとしたクリスチャンにならなくては、と自分の足りなさや未成熟なところに目がいきがちになり、それを見ては落胆してしまうということがあるかもしれません。しかしパウロは、自分自身の「完全でない」ところを見て、また成長途上であることを認めながらも、「うしろのものを忘れ」、神が与えてくださる賞をいただくために、「目標を目指して走っている」と語ります。私たちもキリストが捕らえていてくださっているので、平安と希望を持って、神様が与えてくださる賞を、栄光の冠を目指して、走っていくことができるのです。

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